日本城郭全集に茶臼山城は、頸城区矢住町内の西南、集落から歩いて10分ほどの所に位置する標高42メートルの山です。頸城平野の東北端、吉川区の顕法寺城の支城として、南北朝時代に築城されました。本丸跡は10アール近くの平坦地で、松が茂っており、二の丸には直径2メートル近くの井戸があります。以前、二の丸付近から観音像が出土し、今日、矢住町内の寺院に安置されているといわれてます。山麓には屋敷跡と思われる所があり、茶臼山城の居館であろうとのことです。言い伝えによると、南北朝時代は南朝方の河野弾正通信、上杉時代は黒金摂津守の居城とのことです。(花ヶ前盛明氏)
一方、頸城村史には、新潟市鳥見町の浄土真宗西厳寺住職手島家の伝承よれば、祖先手島清蔵源景行が城主であったが敵軍(景勝方)に攻められ(天正7年)、城から落ち延びたとあり、このとき城主の姫が井戸に身投げしたとあります。昭和62年11月に手島恵船氏などにより追悼碑が建立されました。
標高42mの茶臼山山頂近くに大きな井戸があります。
この山にある茶臼山城の城主、手島清蔵源影行は、上杉景虎と上杉景勝が戦ったお館の乱で景虎軍に加わりました。しかし、戦況は日増しに悪くなり、茶臼山城もついに景勝軍に包囲されてしまいました。城主手島氏は、もはやこれ以上城を支えきれないと覚悟を決め、とうとう城を捨てて逃れる決意をしました。
場内には、とても美しく琴の名手であったと伝えられる姫がいました。手島氏はこの姫を愛していましたが、美しく愛らしい姫をともなって落ち延びることは難しいと考えました。思い悩んだ結果、手島氏は、心を鬼にして、我が姫を残して自分だけ落城することにしました。どんなに乱暴な敵軍であっても、城にいるのはか弱い女であり、わが姫を助けられるに違いないと期待したからです。そして手島氏は、いとしい姫と泣く泣く別れ、後ろ髪を引かれる思いで落城したのです。
しかし、姫の悲しみは相当なものでした。手島氏と別れた後、悲しみのあまり、敵の軍勢が城に攻め入る前に、人知れずこの井戸に身を投じて死んでしまいました。
数日してから、この山に登った人々が、姫が身を投じた井戸に石を投げ込みました。すると、「ぼちゃん」という水音に続いて、井戸の底から、美しくも悲しい琴の音が響いてくるではありませんか。まるで、悲嘆にくれて池に身を投じたはずの姫が奏でているように聴こえてきます。人々は琴の音を聴いては悲しんだものです。
茶臼山城は敵軍の手に落ちました。城主の手島氏は敗れましたが、柿崎に陣取っていた敵軍の虚をついて、大潟湿地をくぐり抜けることに成功しました。そして柿崎浜から潮に乗って船で必死の脱出を試みたのです。手島氏のお供をして逃げ延びた家臣六人衆も一緒に、新潟の島見浜に無事たどり着いたということです。
なお、茶臼山の井戸は、遠く離れた柿崎浜に抜けるものだという謎めいたいい伝えも残っています。姫が手島氏の後を追って柿崎浜に向かい、手島氏に再会することを願ったのでしょうか。
島見町に生き延びた手島氏は、四百年後の今日も途絶えることなく、手島家当主が新潟市島見町の浄土真宗西厳寺の住職になったそうです。砦の二の郭には姫が身を投げたという古井戸が残っており、主郭には非業の死を選んだ姫のために立派な追悼の碑が立っています。この碑は、城主末孫第十五世にあたる手島恵昭氏と城主の四天王・六人衆の末孫が昭和62年11月に建立したものです。碑文は手島恵昭撰、名文で、施主の学識と人柄が偲ばれます。