三分一原古戦場は、保倉川に架かる三分一橋の北側周辺と言われている。
北条早雲が延徳3年(1491)に堀越公方家茶々丸を攻め殺し、伊豆国を取ったのが戦国(下剋上)時代の始まりと言われている。
越後国では、守護代長尾為景が守護上杉房能の養子定実を擁し、クーデーターを敢行した。永正4年(1507)8月7日房能は松之山天水越で自害した。このため、房能の実兄関東管領上杉顕定は越後国に攻め入り、為景は敗れたものの反攻に転じ、顕定は同7年(1510)6月20日討死した。顕定の養子憲房は「下郎の身で、二代の主人を亡ぼすとは、天下に比べものもない」と怒り悲しんだ。
越後守護上杉家の一族柏崎の上条定憲は、享禄3年(1530)10月、天文2年(1533)、同4年と三度にわたり、為景打倒を企てた。同5年4月10日に府中に進撃してきた上条方宇佐美一類柿崎以下と防戦する為景方との合戦が夷守郷三分一原であり、からくも撃退することができた。享禄3年は為景三男長尾景虎(上杉謙信)が誕生した年となる。
一部、山川出版社「新潟県の歴史」より引用する。