大瀁新田完成

大瀁新田完成

頸城区には、かつて浮島潟と大潟があった。この地の新田開発は、寛永14(1637)年7月の新田開発の許可書により、保倉川からの用水開削等の工事が始まった。用水は鵜ノ木で三筋に分け、北江、中江、南江と呼び、今日は北川、中川、南川と呼ばれている。

新田開発は三期に及び、まず大瀁新田が正保元(1644)年正月に開発が完成した。開発は40ヶ村に及び新田村は34ヶ村となった。この事業は、越後中将松平光長家老小栗五郎左衛門がつかさどり、開発功労者上野一ノ宮浪人茂田七右衛門と神戸三郎左衛門、高田の豪商宮嶋作右衛門の三人に開発高の10分1、1,757石が褒賞として支給された。

つづいて中谷内新田36ヶ村は明暦元(1655)年に、大潟新田24ヶ村は延宝6(1678)年に完成し、大瀁郷の開発も完了した。

新田は、天和検地で18,913石余にのぼった。

『頸城村史』より引用する。

鵜ノ木の水門

鵜ノ木の水門